2017年12月13日
私のトイガン/サバゲー遍歴 高校~就職~BM編
前回、初めて買ったトイガンからサバゲーにのめり込んだ中学生時代までを書いたので、
高校~就職、現在のチームの大元となる集まりまでをクダクダ書いて行こうと思う。
高校受験の頃は流石にサバゲーどころでは無かったが、
中学卒業~高校入学までの春休みに一度ゲームをしに
いつものフィールドへ行った。
この時、大雨が途中から降り出してしまい、
急遽、帰ったのだが、エアタンクを忘れて来てしまった。
気がついてすぐに大雨の中自転車でフィールドに向かったが、
エアタンクはもう無かった。
後日、発売されたばかりのグリーンガスレギュレーターを購入。
今で言うCo2ボンベを使ったシステムで、
当時はエアタンクに変わるシステムと期待されていた。
高校に入学したら中学時代に違う中学へ入学した友人と再会。
彼もサバゲーをやって居たので、一緒に始める事になった。
が、中学時代からサバゲ以外の趣味でやってきた
音楽関係(LIVEに行ったり、バンド活動だったり)も盛んになってきており、
以前ほどの熱の入れようでは無かった。
当時、使って居たのはマルゼン シュタィヤーAUG SMG
コクサイXM177
グリーンガスシステムは小さくて楽だったが、
当時の風潮でJACの銃は高気圧カスタムされており、
それでなくても燃費の悪いJACの銃ではガスボンベが持たなかった。
その為、未改造でのソコソコ使えた上にコンパクトなAUG SMGと
セミオートのみで燃費が良く、パワーもあったコクサイXM177がメインになっていた。
そして高校卒業の直前、
行きつけのおもちゃ屋さんでとある人と
当時発売された「ウルトラマン研究序説」という本で盛り上がった。
高校を卒業した後、私は消防士となり、
最初の7ヶ月は訓練センターに入校していたが、
この間に友人が行きつけのおもちゃ屋さんでサバイバルゲームを行っている
人と知り合い、そのチームに入る運びとなり、
丁度、週末に帰ってきていた私に報告してくれて、
私も友人二人と共にそこに入る事となった。
このチームが以降のBLACK MONDAYとなる訳だが、
当時、チーム名は無く当時のリーダーの声掛けで
月に1回~2回の不定期ゲームを行う集団といった趣だった。
そのチームには上記のウルトラマン研究序説の話で盛り上がった人も居たのはビックリだった。
このチームに入って最初にビックリしたのは
出ていたのは知っていたが、使っている人を見たことが無かった、
東京マルイ製の電動ガン第一号FA-MASをリーダーが愛用していた事だった。
今で言うハイパワーゲームが当たり前だった時代に
こんなの使えるのかよ?と懐疑的だったが、
エアタンク、ボンベからの開放、見た目をそこわない多弾数マガジン、
思いのほか良く飛ぶ弾道と良い事も多かったが、
流石にFA-MASはちょっと・・・
と思って居た頃に、マルイから第二弾としてM16A1が発売された。
これはすぐに購入したが、
まだこの当時、HOPシステムは無く、
飛距離はガスライフルには勝てなかった為、
知り合いのショップにてカスタムをしてもらう事に。
カスタムと言っても、今のようなモノでは無く、
精密バレルへの交換とスプリング強化のみと言う代物だった。
それでも当時はガスライフルとタメを張る電動ガンではあった。
そして、就職して少したっていたので、
金回りも良くなり、自分の車も持っていたので、
当時相模原にあった東京ファントム(現ファントム)に入り浸り、
チーム内でアサヒファイヤーアームズの出したスーパータンク、
アサヒの銃が流行りだしていた事もあり、
スーパータンクとM60を購入した。
当時はまだ専用フィールドなどほぼ無く、
沼津まで行ってゲームを行っていたが、
沼津の某ショップのカスタムが幅を利かせているゲームで、
いくらアサヒの銃をとは言え、ノーマルでは性能差が雲泥の差であったが、
まだ若かった私や友人は足でゲームを引っかき回していた。
友人などはMGCのCZ-75一丁で
30万以上のカスタム代を支払った人からHITを取り、
泣かせていたりしていて、銃の性能だけでゲームが成り立つ訳では無いことを証明していた。
その頃には東京マルイの銃にHOPUPシステムが装備され、
地元のゲームではだんだんと電動ガンにシェアを奪われて行く状況になった。
これは当時、国内のサバゲ界隈で普通に起きていた現象だった。
この頃にはマルイからHOP付きM16 VNバージョンが出ていて、コレを愛用していた。
この頃、チームは「ドルフィン」とか、「○○さんとゆかいな仲間たち」とか
名乗ってたりそう呼ばれてたりって感じの(仮)な状況ではあった。
BLACK MONDAYと言う名をいつから名乗ったのか?
それは当時のリーダーであったギャラが、
お誘いを受けたゲームメーカーKOEI(現コーエーテクモゲームス)主催の
ゲームに参加した時にチーム名を聞かれ、
急に言い出した名前だった。
皆、えええ?何それどーゆー意味??
と聞いたら、
当時はギャラの家に土日となると集まって遊んでいてが、
月曜だけでは電話もしてくるな!と決まっており、
土日に疲れ果てるまで遊び、魔の月曜日って事で着けた
と説明された。
これは前々から考えていたのか、
突発的に出てきた事なのかは
本人しか判らないし、本人ももう判らないのかもしれない。
そんなこんなで、このチームは
BLACK MONDAYとなり、まだ規制が入る以前だったので、
エアコキライフルには優遇処置があり、バイオBB弾を使う事も無かった。
そんなある日にリーダーのギャラから
リーダーを引き継いでお前がやれと言われる事となった。
ゲーム回しや日程調整を俺がやる事となったのだった。
高校~就職、現在のチームの大元となる集まりまでをクダクダ書いて行こうと思う。
高校受験の頃は流石にサバゲーどころでは無かったが、
中学卒業~高校入学までの春休みに一度ゲームをしに
いつものフィールドへ行った。
この時、大雨が途中から降り出してしまい、
急遽、帰ったのだが、エアタンクを忘れて来てしまった。
気がついてすぐに大雨の中自転車でフィールドに向かったが、
エアタンクはもう無かった。
後日、発売されたばかりのグリーンガスレギュレーターを購入。
今で言うCo2ボンベを使ったシステムで、
当時はエアタンクに変わるシステムと期待されていた。
高校に入学したら中学時代に違う中学へ入学した友人と再会。
彼もサバゲーをやって居たので、一緒に始める事になった。
が、中学時代からサバゲ以外の趣味でやってきた
音楽関係(LIVEに行ったり、バンド活動だったり)も盛んになってきており、
以前ほどの熱の入れようでは無かった。
当時、使って居たのはマルゼン シュタィヤーAUG SMG
コクサイXM177
グリーンガスシステムは小さくて楽だったが、
当時の風潮でJACの銃は高気圧カスタムされており、
それでなくても燃費の悪いJACの銃ではガスボンベが持たなかった。
その為、未改造でのソコソコ使えた上にコンパクトなAUG SMGと
セミオートのみで燃費が良く、パワーもあったコクサイXM177がメインになっていた。
そして高校卒業の直前、
行きつけのおもちゃ屋さんでとある人と
当時発売された「ウルトラマン研究序説」という本で盛り上がった。
高校を卒業した後、私は消防士となり、
最初の7ヶ月は訓練センターに入校していたが、
この間に友人が行きつけのおもちゃ屋さんでサバイバルゲームを行っている
人と知り合い、そのチームに入る運びとなり、
丁度、週末に帰ってきていた私に報告してくれて、
私も友人二人と共にそこに入る事となった。
このチームが以降のBLACK MONDAYとなる訳だが、
当時、チーム名は無く当時のリーダーの声掛けで
月に1回~2回の不定期ゲームを行う集団といった趣だった。
そのチームには上記のウルトラマン研究序説の話で盛り上がった人も居たのはビックリだった。
このチームに入って最初にビックリしたのは
出ていたのは知っていたが、使っている人を見たことが無かった、
東京マルイ製の電動ガン第一号FA-MASをリーダーが愛用していた事だった。
今で言うハイパワーゲームが当たり前だった時代に
こんなの使えるのかよ?と懐疑的だったが、
エアタンク、ボンベからの開放、見た目をそこわない多弾数マガジン、
思いのほか良く飛ぶ弾道と良い事も多かったが、
流石にFA-MASはちょっと・・・
と思って居た頃に、マルイから第二弾としてM16A1が発売された。
これはすぐに購入したが、
まだこの当時、HOPシステムは無く、
飛距離はガスライフルには勝てなかった為、
知り合いのショップにてカスタムをしてもらう事に。
カスタムと言っても、今のようなモノでは無く、
精密バレルへの交換とスプリング強化のみと言う代物だった。
それでも当時はガスライフルとタメを張る電動ガンではあった。
そして、就職して少したっていたので、
金回りも良くなり、自分の車も持っていたので、
当時相模原にあった東京ファントム(現ファントム)に入り浸り、
チーム内でアサヒファイヤーアームズの出したスーパータンク、
アサヒの銃が流行りだしていた事もあり、
スーパータンクとM60を購入した。
当時はまだ専用フィールドなどほぼ無く、
沼津まで行ってゲームを行っていたが、
沼津の某ショップのカスタムが幅を利かせているゲームで、
いくらアサヒの銃をとは言え、ノーマルでは性能差が雲泥の差であったが、
まだ若かった私や友人は足でゲームを引っかき回していた。
友人などはMGCのCZ-75一丁で
30万以上のカスタム代を支払った人からHITを取り、
泣かせていたりしていて、銃の性能だけでゲームが成り立つ訳では無いことを証明していた。
その頃には東京マルイの銃にHOPUPシステムが装備され、
地元のゲームではだんだんと電動ガンにシェアを奪われて行く状況になった。
これは当時、国内のサバゲ界隈で普通に起きていた現象だった。
この頃にはマルイからHOP付きM16 VNバージョンが出ていて、コレを愛用していた。
この頃、チームは「ドルフィン」とか、「○○さんとゆかいな仲間たち」とか
名乗ってたりそう呼ばれてたりって感じの(仮)な状況ではあった。
BLACK MONDAYと言う名をいつから名乗ったのか?
それは当時のリーダーであったギャラが、
お誘いを受けたゲームメーカーKOEI(現コーエーテクモゲームス)主催の
ゲームに参加した時にチーム名を聞かれ、
急に言い出した名前だった。
皆、えええ?何それどーゆー意味??
と聞いたら、
当時はギャラの家に土日となると集まって遊んでいてが、
月曜だけでは電話もしてくるな!と決まっており、
土日に疲れ果てるまで遊び、魔の月曜日って事で着けた
と説明された。
これは前々から考えていたのか、
突発的に出てきた事なのかは
本人しか判らないし、本人ももう判らないのかもしれない。
そんなこんなで、このチームは
BLACK MONDAYとなり、まだ規制が入る以前だったので、
エアコキライフルには優遇処置があり、バイオBB弾を使う事も無かった。
そんなある日にリーダーのギャラから
リーダーを引き継いでお前がやれと言われる事となった。
ゲーム回しや日程調整を俺がやる事となったのだった。